第3話 神獣討伐
朝を迎えて、ヒノワは名残惜しい気持ちで村へ帰った。村の神々は朝帰りしたヒノワに特に何を言うでもなく、いつもどおり朝の挨拶を交わした。
ヒノワは朝食の食材を包丁で刻みながら、ぼんやりとしていた。昨夜のアケウミの温もりがまだ髪に、肌に残っている。ついにアケウミと夫婦の契りを交わしたのだ――。
別れ際に軽く口付けをしたばかりなのに、もう一度アケウミと触れたくてたまらない。ヒノワは顔がにやけそうになった。
「ちょっと」
横から尖った声がかかった。女神セイだ。
「何ぼさっとしてるの? 早くしてよ、こっちは終わったんだけど」
「あ、ごめん」
セイと二人で食材を刻んでいたこと、すっかり忘れていた。
「もう、貸して。――最近のあなたはだらしがない。ぐずぐずしてる」
「遅れたことは謝るよ。でも、そこまで言わなくてもいいでしょ」
「だったらちゃんとやって。あたしは役立たずと当番なんてごめんだから」
ヒノワの分を手伝ってもらっている手前、これ以上は言い返せなかった。
近頃のセイは、やたらといらいらしていて今にも噴火しそうだ。もともと口の悪いひとではあったが、ここまできつくはなかった。
何が彼女を憤らせているのか――いや、今は朝食の準備に集中だ。
「朝ごはんですよ」
急いで作り上げた朝食を、男神たちが働く畑まで持っていく。一番にこちらに気がついたのは男神メイで、ヒノワは笑顔がこわばる。
「ああ、君か……どうも」
セイも困ったものだが、ヒノワはセイの弟のメイにも頭を抱えていた。
口数こそ少ない彼のヒノワを見る視線はまるで蛇のように粘っこく、やけに皮膚にまとわりつく。姉弟揃って様子がおかしかった。
「いつものことだよ。ヒノワが気にすることじゃない」
昼頃、ヒノワは洗濯をしていた。
桶の中で布を擦り合わせながら相談している相手はマヤネだ。彼女は毎日毎日、村の者たちの仕事の進捗を確かめるべく、あちこち歩き回っている。
ヒノワのところにも漏れなく来たのを機に、セイとメイのことを話した。
「あの子たちは不器用なんだ。あんたにあたりが強いからといって、あんたに原因があるわけじゃないから」
「だといいんですけど……」
「ところでヒノワ。アケウミとはどうなったの」
不意にアケウミのことを聞かれて顔が熱くなった。マヤネに聞かれるのは当然のこととはいえ、昨夜のことを思い出すとどうしても恥ずかしくて照れ臭くて、眩暈がする。
赤面するヒノワを見て、マヤネはニッと笑う。
「その様子だと上手くいったみたいだね。いやぁ、あんなに小さかったヒノワもついにお嫁さんかぁ」
「か、からかわないでください!」
「ごめんごめん。……っと、時間だ。次の持ち場に行ってくるよ。またあとでね」
お嫁さん、か――。
なんだかくすぐったい響きだった。
マヤネが言うように、ヒノワもまさか自分が誰かの嫁になるとは思ってもいなかった。
チビだし、弱いし。ヒノワと夫婦(めおと)になりたいという男神など今まで一人もいなかった。それが今やアケウミと特別親しくなり、昨夜に至っては……。
ああだめだ。また思い出してしまった。ヒノワは首を左右に振る。
顔が燃えているのではないかと心配になるくらい熱い。洗濯物を洗う手も止まってしまっている。
今朝、仕事が遅いと怒られたばかりなのに。しっかりしなくてはならないとわかっている。だけど、思考が止まらない。
昨夜の甘い記憶に思いを馳せた、そのときだ。
「キャアアア!」
どこかから悲鳴が聞こえたのは。
ヒノワが駆けつけたときには村の神々が多く集まっていた。女は遠巻きに震え、男は木の棒と石で作った槍を手に構えている。彼らの視線の先には神獣(しんじゅう)がいた。
その姿を見て、ヒノワは足がすくんでしまった。
神獣の全身を覆う銀色の体毛が陽光に当てられてぎらぎらと輝いており、四本の足とやや長い首、額に角を生やした巨体はそこにいるだけで周囲を圧倒する。――なんて恐ろしいのだろう。
「グルル……」
神獣の金色の瞳が男神たちを睨みつける。剥かれた神獣の牙は空気を震えさせた。
「くそっ! なんでこんなところにでけぇ神獣がいるんだ!」
「落ち着け! あんなの見かけ倒しだ、大したことはねぇ! 足を狙えば……」
「馬鹿か?! マヤネがやられたんだぞ! 俺たちでどうにかできるわけがない!」
恐怖と混乱の中、ヒノワはようやく神獣の足元にマヤネが倒れていることに気付いた。
村周辺に出没する神獣の多くはマヤネが討伐しているが、彼女が倒れたとなると、神獣の相手ができるのは誰だ? 他にいるのか?
一瞬、アケウミの顔が浮かんだが、彼は今この場にはいない。どこにいるのかもわからない。呼びに行く時間などなかった。
となれば、戦うのは自分しかいないじゃないか――。
足の震えは止まっていた。ヒノワは前に出た。
「ヒノワ?! 何してる! 下がれ!」
「お前じゃ無理だ! お前は村で一番よわ――」
村の男が言い切るより先に、神獣が吹き飛んだ。ヒノワが手をかざした、ただそれだけのことだった。
神獣が倒れ込んだ隙にヒノワはマヤネのそばに駆け寄る。意識はあるみたいだ。
「うぅ……ヒノワ……? あんた、今なにを……どうして……」
「マヤネ、その話はまた後で。さ、早く立って、ここから逃げて」
「ヒノワ! 後ろを見ろ!」男神が叫ぶ。
神獣がとてつもない速さでヒノワとマヤネに向かって走っている。
このままではぶつかる。ヒノワはもう一度手をかざした。眩い光が手のひらから放たれ、またしても神獣は吹き飛び、今度は樹木に激突した。
巨体がぴくぴくと震える。これで終わりかと安堵したのも束の間、神獣は耳を突き破るような奇声をあげた。仲間を呼んだのだ。同じ姿形をした神獣が一体、二体と森から現れる。
「なんだこいつら、最初の奴よりでけぇぞ!」
「あなたは下がって。マヤネとみんなをお願い」
近場にいた者たちを全員逃し、ヒノワは自分だけ残って神獣たちに取り囲まれたというのに、妙に高揚していた。
かつては小さい神獣すら倒せなかったというのに、今はこうしてとても大きな神獣とやりあっている。
自分自身の成長はもちろんのこと、村のみんなを守れることが、ヒノワは何よりも嬉しかった。
だが彼女はまだ未熟だった。何度も神獣を吹き飛ばすうちに体が疲弊しつつあることに気付かなかった。
手をかざす。神獣は吹き飛ばない。驚いている隙を突かれた。巨体の体当たりをもろに喰らう。ヒノワは倒れ込んだ。
体当たりとは別の個体が地面を蹴り上げ、空高く跳躍する。ヒノワ目掛けて落下していることは一目瞭然だった。
避けなければならないと頭ではわかっているのに、全身が激しく傷んで指一本たりとも動かせない。
ヒノワは死を覚悟した。神獣に踏まれた際の痛みと衝撃と、死の恐怖に耐えるようにぎゅっと目を閉じる。
けれども神獣はいつまで経っても降ってこないばかりか、むしろヒノワの体が宙に浮かぶような感覚がした。それになんだか、あたたかい。
ヒノワは恐る恐る目を開けた。アケウミに抱き抱えられていた。
「あけ、うみ」
「ヒノワ、よく頑張ったな。……しっかり掴まってろよ」
それからの出来事は、あっという間だった。アケウミはヒノワを抱えたまま神獣を数体、倒してしまった。それもたった一撃、蹴りを入れただけでだ。
なんて強い。ヒノワはアケウミの圧倒的な力に見惚れる。
アケウミに倒され消失していく神獣をぼんやり眺めていると、強烈な睡魔がヒノワを襲った。眠るまいと耐えていたのに、アケウミに頬を撫でられては眠る他なかった。
目を覚ましたときには朝だった。神獣出没から二日が経過していた。
寝ぼけていたヒノワは神獣のことなどすっかり忘れているばかりか、てっきり寝坊したのかと勘違いして朝の当番に間に合わないと寝台を飛び出すところだった。
そんなヒノワを止めたのはアケウミだ。
「よせ。お前は神獣を相手にして疲れている。無茶をするな」
慌てるヒノワに、アケウミはヒノワが眠りこける前のことを伝えた。ヒノワはやっと思い出した。
「マヤネは? みんなは? 無事なの?」
「無事だよ、ヒノワが頑張ったおかげでな」
そう言って、アケウミはヒノワの頭を撫でた。
ヒノワは今、医務室にいた。そこにアケウミと二人きりでいる。小さな窓から差し込む太陽光と、頭を撫でるアケウミの手が心地よかった。
撫でられていると、妙な違和感に気が付いた。アケウミの手がやたらと大きい。気のせいだろうか? ヒノワはアケウミの姿形を確認したあと、布団の中の自分の体を覗き込んだ。
「私、小さくなってる……?!」
「ああ、そうだな」
「な、なんで……いや、それよりも……どうしよう」
神の姿形は、保有する霊力の量で決まる。縮んだということは霊力を失ったということだ。
頭では理解できるが、村の者たちになんと説明したものか。それ以前にこの姿で人前に出たくない。せっかく大人の姿になったのに、また子供の姿になっただなんて恥ずかしい。
「落ち着け。戻る方法ならある」
「どうやって……!」
「ここだ」
アケウミの親指がヒノワの唇に触れた。理解が追いつかず、ヒノワは目をぱちくりとさせた。
一方アケウミはなぜか困惑した顔をしている。言葉に迷っているのか、あるいは恥ずかしいのか、ためらいがちに口を開いた。
「わかっていると思うが、ヒノワ、お前が急に成長したのは……霊力が増えたのは……その、俺と口付けをしてからだろう」
ヒノワの顔も赤くなった。薄々感じていたことだが、まさかアケウミも同じ考えだったとは。
だとすれば、これから何が起きるかなんて簡単に想像できた。ヒノワの心臓がうるさいくらい大きく脈打ち出す。
「つまり、だな。お前が成長したのは、俺が口付けを通して霊力を分け与えたからで、小さくなったのは分け与えた霊力を神獣との戦いで使い切ったからだ。そういうことだから……安心しろ、お前は大人の姿に戻れる」
しばらくの間、ヒノワとアケウミは見つめ合った。アケウミがヒノワの唇に自身の唇を重ねたのは、ヒノワがゆっくりと目を閉じてからだった。