第6話 姉と弟

 真夜中の洞窟で、泣きじゃくるヒノワの背中をアケウミはただ撫でていた。

 ヒノワが言ったとおり、アケウミはマツイノから来た旧知カゲウラにマツイノへ戻るよう告げられた。神獣に消されたという村の男神の弔いが終わったあとのことだ。


 ――冗談じゃない。誰が戻るものか。

 ――我儘を言うなアケウミ。最高神から辞令が出ているんだ。

 ――追い出しておいて今更戻れと? 随分と虫のいい。

 ――はき違えるな、お前をマツイノから追い出したのは最高神じゃない。それと、マツイノに呼ばれた者は他にもいる。

 ――何?

 ――ヒノワという名の女神だ。強大な霊力を持っているからすぐにここを出る必要があるそうだ。……それにしても、不思議なものだな。霊力が弱いからムメイ送りになったのに、マツイノに呼ばれるほど強くなるとは。確か、お前と同じ日に生まれた女神だったよな。お前、何か知ってるか。

 アケウミは何も知らないとごまかした。

 他人に霊力を分け与えるなどという、マツイノでも聞いたことのない奇跡のような話をカゲウラにしたくないというのもあるが、ヒノワは長らく子供の姿だったことを恥じている節がある。ヒノワ本人のいないところで迂闊に話す内容ではないと思った。


 ――そうか、知らないか。何はともあれ、お前がマツイノに再び返り咲く日が来ること、旧友として誇らしいよ。移動はどうする? 俺たちと戻るか?

 ――……少し、時間をくれ。

 ヒノワにも辞令が下っているなら、ヒノワの判断も聞いておきたかった。

 カゲウラと話がついた頃、ちょうどヒノワが洞窟にやってきた。カゲウラはヒノワの姿を捉えるなり、驚愕を顔に浮かべた。


 ――お前、まさか。

 カゲウラが何を言いたいかは、みなまで言わずともわかった。

 アケウミは返事をしなかった。ヒノワとは夫婦(めおと)であるという、無言の肯定だ。


 ――二人でゆっくり話すといい。俺は村から少し離れた場所で待機している。

 ――ああ、助かる。


 こうしてヒノワと二人きりになり、今に至る。

 ヒノワの嗚咽は少しずつ落ち着いてきていた。そろそろ話せるだろうか。アケウミはヒノワにそっと声をかける。


「マツイノが、怖いか」

「……うん」

「村の者たちと離れるのは嫌か」

「……うん」

「そうだろうな。村の者たちは大切な奴らだ、お前にとっても、俺にとっても」

「……うん」

「だがな、ヒノワ。俺たちがここにいると、神獣が襲いかかってくるんだ」

 神獣は霊力を求めて神の元へやってくる。強い霊力のあるところに巨大な神獣あり。ヒノワが村にいると、マヤネたち村の神に被害が及ぶ。

 正に今日、被害が出てしまった。村の男神が一人、神獣に襲われて消えた。ムメイで暮らす神々に、体の大きな神獣を倒す力はないのだ。

 ヒノワの村に残りたいという気持ちは大切にしてやりたいが、村の者たちの安全を考えるとマツイノに移住する他ない。


「村のみんなを守るためにもマツイノに行こう。……そんな顔をするな。マツイノも悪いところじゃない。見たことのないもの、景色……ヒノワを楽しませてくれるものがたくさんある。より強い神になるための修行もできるぞ。それに俺もついてる。だから、心配するな」

「……うん」

 アケウミとて不安なわけではない。マツイノには自分を忌み嫌い、迫害した連中がいる。正直、奴らとは口も利きたくないし同じ空気も吸いたくないが、今は自分のことより、ヒノワだ。



  *



 朝を迎えた。昨夜、アケウミに慰めてもらい、ヒノワの胸中を渦巻いていたものは静けさを取り戻していた。

 明日の朝、ヒノワはアケウミと共に村を出る。昨夜アケウミと二人で決めたことだ。


 でも、今日だけは。

 今日一日だけは村でいつもと変わらない日常を過ごすことにした。そうすることで、ヒノワの村への未練は少し落ち着くはずだった。


 今日もヒノワは朝食当番だ。調理場にはまだ誰も来ておらず、明かりもついていない。

 当然と言えば当然だった。ヒノワと同じ当番の女神セイは、弟である男神メイを喪ったばかりだ。今頃寝込んでいるのかもしれない。

 不憫に思う気持ちと、罪悪感がちくりと胸を刺す。同時にセイと顔を合わせずに済んでよかったと安堵する自分もいて、これまた嫌気が差した。


 とにかく、ヒノワはセイの分も仕事を頑張らねばならない。いそいそと調理の準備を始めた。

 まな板に包丁を叩きつける。村の者全員分の食事だから、食材の量は山のようだ。野菜を、肉を、ひたすら切って切りまくった。



 一段落ついた頃だった。調理場の扉が乱暴に開かれた。突然のことに、ヒノワは弾かれたように扉を振り返る。女神セイが、いた。

 一瞬、心臓がぎゅっと握り締められるような感覚に陥ったが、すぐに平常心を装った。


「セイ、おはよう。昨日は……その、ご愁傷様でした。もう仕事に出て大丈夫なの? って、大丈夫なわけないか。私一人でやるから、セイは休んでてよ」

 返事はなかった。セイは外の光を背負ったまま、ヒノワのことをじっと見て……いや、睨んでいた。


 嫌な予感がする。そう思って一歩後ろに下がったときには遅かった。セイは凄まじい速さでヒノワに飛びかかってきた。手にはきらりと光るものが握り締められている。刃物だ。

 避けた反動でヒノワは地面に背中を打ち付けてしまう。その隙をセイは逃さなかった。馬乗りになって、ヒノワの顔をめがけて刃物を振り下ろす。

 間一髪、ヒノワは頭をよじって刃物を避けた。刃物は床に突き刺さった。耳障りな高い音が響く。

 ヒノワは大きな怪我こそしなかったが、刃物が頬をかすったのか、そこだけ焼けるように熱かった。


 今のセイは、正気じゃない。何とかしなければ――。

 ヒノワはとっさにセイの手首を掴んだ。セイはもう一度刃物を振り下ろすところだった。


「セイ、やめて! なんのつもりなの!」

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 手首を掴まれているというのに、セイは構わず刃物を振り下ろそうとする。何度も何度も、ヒノワの顔を、心臓を、腹を、どこでもいいから刃を突き刺してやろうと刃物を振り続けた。

 ヒノワは無我夢中で刃を避けた。このままでは今度こそ刃が刺さってしまうかもしれない。形勢逆転しなければと、ヒノワはセイの腹に蹴りを入れた。必死だった。

 セイは吹き飛び、食器の入った棚に背中を打ち付けた。衝撃が骨まで響いたのだろう、顔を強くしかめ、ヒノワに蹴られた腹を抑えるように蹲り……泣き出した。


「うぅ……うう……」

 ヒノワはセイの手から離れた刃物を拾い上げた。刃物はヒノワの知っているそれとは違う形状をしている。


「これは……?」

「神獣の……っ、はぁっ……牙よ……」

 刃は神獣の鋭い牙だった。糸で木の枝にきつく縛り付けてある。


「メイの……胸に……刺さってたわ……」

「え……?」

 目の前が真っ暗になりそうだった。


 神獣の牙に切りつけられた神は、傷口から霊力が溢れ出し、やがて姿形を保てなくなり、跡形もなく消え去る。

 昨日、セイの弟の男神メイが神獣の牙に裂かれて消えた。死んだメイの胸に刺さっていた神獣の牙をセイは刃物に作り替え、刃をヒノワに向けている。

 理由は……考えたくない。だが、セイの口から語られることとなる。


 セイは呼吸を整えながら、ゆっくりと話す。


「最高神の使いから聞いたわ……神獣は、強い霊力を求めてやってくるんですってね。あなたはなぜか知らないけど最近、急激に強くなった。マツイノに招待されるくらいにね。つまり、神獣が村を襲ったのは、メイが死んだのはあなたのせいってこと」

 セイの言うとおりだ。ヒノワが村にいなければ、神獣がやってくることはなかった。神獣がやってこなければ、メイが死ぬこともなかった。

 セイの声は冷たく、罪悪感となってヒノワの双肩に圧し掛かり、ヒノワは押し潰されそうになる。


「ねえ、ひとつ教えてくれる?」

 セイの息はすっかり整ったようだ。滞りなくすらすらと言葉を並べる。


「ヒノワ、あなたはどうして死んでないの? 頬の傷から霊力が溢れ出てるはずよね。あたしにもわかるわ、感じるもの。でも、あなたは死なないどころか体も小さくならない。メイはね、消える前にまず体が小さくなったの。昔のあなたみたいな小さな子供の姿にね。最後には赤ん坊になって……まるで最初からいなかったかのように跡形もなく、綺麗に消えた。でも、あなたは……」

 頬の傷にセイの視線が刺さる。まるでもう一度刃物で切り付けられたかのように、痛い。


「……もう一度聞くわ。あなたはどうして死なないの? 体も小さくならないの? 弱いくせに。ねえ、どうして? なんでなの?」

「そんなの……わからないよ……」

「嘘!!」

 セイの眉が、目が、思い切り吊り上がる。瞳にはヒノワに対する憎悪がはっきりと浮かんでいた。

 もうやめてくれと叫びたくなった。これ以上責められたら、ヒノワは耐えれ切れず、狂ってしまいそうになる。

 しかし、セイは止まらない。


「何かあるんでしょう! そこまで強くなったわけが、何か! そうでなきゃ、あなたがこんなに強くなるなんてありえない!」

 セイは懐からもう一本、刃物を取り出す。地面に転がったのと別のものだ。


「驚いた? メイに刺さっていた牙は一本じゃなかったの。全部、あなたを殺すための刃物にしたわ。今度はどこを刺そうかしら。足? 腕? 腹? ううん、しぶといあなたはそれじゃ死なない。どこが的確か? それは――」

 セイの視線が、ヒノワの心臓を指す。あっと思ったときにはヒノワは体が動いていた。心臓を突こうと床を蹴ったセイを軽やかにかわそうとして……転んだ。


 床にはあらゆる食器や調理道具が散乱しており、足を引っかけてしまった。

 もう避けられない。

 時間がゆっくりと流れるようだった。セイの右手がヒノワの胸に向かって振り下ろされる。

 そのときだった。


「何やってんの!」

 誰かが調理場に飛び込んできて、セイを羽交い絞めにした。マヤネだった。


「離して、マヤネ! ヒノワを殺せないじゃない!!」

「なんたってそんなことしようってんだ! 今すぐ刃物を捨てな!!」

「嫌よ! どいて! こいつを殺さないと、あたしたちが報われないんだから――!」

 弟を喪った女神の、悲痛な叫びが響いた。