第8話 ヒノワとセイの約束

 調理場でのひと悶着が終わったあと、ヒノワはマヤネから部屋にいろと言われ、時間が過ぎるのを待っていた。


 マヤネが調理場に来たあとのことを思い出す。

 セイの膂力は交い絞めにされても衰えず、マヤネ一人では抑えきれないでいた。マヤネとセイが揉み合っている間に他の誰かが駆け付けていなかったらどうなっていたか。

 数名の神に押さえつけられ、固く握りしめていた刃物を取り上げられると、セイは牙を抜かれたように大人しくなり、事なきを得た。

 ヒノワはというと、呆然とするばかりで何もできなかった。


 セイの目元には酷いくまができていた。瞼も腫れていたから、一晩中泣きはらしたことは想像に難くない。

 憔悴し切っているのに、目の奥だけはヒノワに対する憎悪で爛々と光っていた。あの目はしばらく忘れられそうにない。

 どうすれば、セイをあんな辛い目に遭わせずに済んだのか。どうすれば、メイは死なずに済んだのか――。考えてもわからなかった。


 部屋の扉が叩かれた。マヤネだ。


「マヤネ! セイは、セイはその……」

 何と聞けばいいのだろう。大丈夫なのか? 無事なのか? そんなことを聞いて何になる。だからといって言葉を濁すわけにもいかず、やっと口にできた質問がこれだ。


「今、どこにいるんですか」

「医務室にいるよ。落ち着いて眠ってる。興奮してたから、監視付きだけどね」

「そう、ですか」

 ヒノワはほっと胸を撫で下ろす。何に対しての安堵なのかは自分でもよくわからない。


「で、何があったの?」

 ヒノワは真実を伝えるかどうか少しの間だけ悩んだが、村の存続に関わることでもある。神獣は霊力を求めて神を襲うこと、あの大きな神獣はヒノワを喰らうために村にやってきたこと、そのせいでヒノワ以外の者に被害が出たこと、セイがヒノワを恨んでいること――ヒノワはありのままを全て、マヤネに話した。

 話を聞いて、マヤネは信じられないと言った顔をした。


「それで、セイとあんなことになったんだね」

「ごめんなさい。私のせいで、村のみんなに迷惑がかかってしまった。怪我人も出たし、メイは消えてなくなった……」

「うーん」

 マヤネは額に手を当てて唸った。


「なんと言ったらいいのかな……。あたしも困惑してる。神獣の狙いは霊力だなんてびっくりだよ。ずっと食べ物ほしさにやってくると思ってたからさ……。メイのことは残念だった。でも、だからといって、セイがあんたに刃を向けていい理由にはならない」

「そう……でしょうか。私がここにいなかったら、神獣はやってこなかった。神獣が来なければ、メイは死ななかった。セイの怒りはもっともです」

「そうだね、気に病むよね。でもねヒノワ、あたしたちはみんな長く生きているから忘れがちだけど、誰にだって遅かれ早かれ命を落とすときが訪れるんだよ。メイはそれが昨日だっただけ……。セイだって長く生きてるんだ、本当はわかってるはずだよ、ヒノワが悪いわけじゃないって。だからそんなに落ち込まないで。ね?」

「……はい」

 マヤネの言葉は、黒くて重たいものに押し潰されそうなヒノワの心をほんの少しだけ軽くしてくれた。



 朝、ヒノワはいつもより早く目が覚めた。辺りはまだ薄暗い。

 今日、この村から出てマツイノに向かう。村の外れではシキが待っている。一度アケウミの洞窟に向かってからアケウミと合流し、二人でシキの元に向かう予定だ。

 村の者たちはみんなまだ寝静まっている。別れの挨拶は昨晩済ませてあった。メイが亡くなったあとなので盛大にとは行かなかったが、村のみんながヒノワとアケウミの門出を祝して宴を開いてくれたのだ。

 出発の直前にみんなの顔を見ると、村を出たくない気持ちが必ず湧くだろう。名残惜しくなる前に、ヒノワはそっと村を出た。

 最後にセイと話がしたかった――そんなことを思いながら。


 アケウミのいる洞窟へ小走りで向かう。

 アケウミはまだ眠っているだろうか。それとも、ヒノワと一緒でいつもより少し早く目が覚めたりしていないだろうか。

 眠っていたら、起きてくるのを待っていよう。起きていたら、思いっきり飛びついて抱きしめてもらおう。


 見知らぬ土地へ旅立つ恐怖をごまかしながら走るヒノワだったが、ある人物によって行先を阻まれた。

 村とアケウミのいる洞窟の間にある雑木林にて、木々の間から姿を現したのは、女神セイだった。


「セイ……! どうしてここに」

「アケウミのところに行くんでしょ? 送ってあげる」

「う、うん……」

 何がそうさせているのか、ヒノワとセイはやたらとゆっくり歩いていた。朝の乾いた空気と、木々のせせらぎだけが漂い、流れる。


「あのさ」

 沈黙を破ったのは、セイだった。


「どうして、こんなに朝早く出発してるわけ。村のみんなに悪いと思わないの。朝起きたらあなたがいなくなってた……なんてことになってたら、みんなびっくりすると思うけど」

「別れの挨拶なら……昨日のうちに済ませてあるから」

「ふぅん」

 会話が途切れる。再び訪れた静けさの中、ヒノワとセイはゆっくり、ゆっくりと歩く。

 ヒノワは、喉に何かがつっかえるような気持ちになっていた。最後にセイと話したかったと思っていたのに、いざ本人を目の前にすると言葉が見つからない、声が出ない。

 でも、早く言わなければ。ぐずぐずしていたら、いくらのんびり歩いているとはいえ、いつか洞窟にたどり着いてしまう。そうしたら最後、セイとはもう二度と話せなくなるかもしれない。


「セイ」

 ヒノワは意を決して足を止めた。隣を歩いていたセイも数歩遅れて立ち止まる。


「あのね、言いたいことがあるの」

「……何?」

「メイのこと。私が早くマツイノに行っていれば、あんなことにはならなかったのに……ごめんなさい」

 ヒノワは頭を深く下げた。顔は見えないが、セイが驚きの表情を浮かべていることが、流れる空気伝いにわかった。


「……それは、違うわ」

「え?」

 ヒノワは顔を上げた。セイは、悲しそうな顔をしていた。


「謝らなきゃいけないのは、あたしのほう。本当はわかっていたの。メイが消滅したのはあなたのせいじゃないって、神獣のせいだって。メイを殺した神獣が許せなかった。でも、神獣はマツイノの神が倒したから……あたしは、行き場のない怒りをあなたにぶつけてしまった……」

 それだけじゃないわ、とセイは続ける。


「強くなっていくあなたを見て、あたしは焦ったわ。あなたを羨ましいって、ずるいって、そんな風に思って、辛く当たったこともある。本当に最低よね。昨日のことと、今までの非礼を謝らせてほしい。本当にごめんなさい」

「セイ……いいんだよ。気にしなくて。話してくれて、ありがとう」

「ふふ、ありがと。……少し喋り過ぎたわね。行きましょうか」

 アケウミの洞窟が見えたところで、セイは再び立ち止まる。


「あたしが送れるのは、ここまで」

「うん、ありがとう」

「ヒノワ、頑張ってね。あなたなら、マツイノで最強の神を目指せるわ」

「ええっ、そんな、無理だよ」

「何言ってるの。せっかくムメイからマツイノに行くんだから。これは大出世なのよ? 誇らしいことじゃない」

「そう、かな」

「そうよ、自信持ちなさい。……もしここに戻ってくるようなことがあったらあたし、今度こそあなたを殺すから」

 顔が本気だった。ヒノワが驚いて固まっていると、セイはぷっと吹き出した。冗談だったとわかって、ヒノワも笑う。二人声を揃えて笑った。


「私、頑張るよ。もっともっと強くなる。村のみんなやセイに恥ずかしくない、立派な神になるから」

 ヒノワの言葉を聞いたセイは、柔らかな微笑みを浮かべた。